家庭で緊張感を持ち、対社会の訓練をする

毎朝、猫のトイレ掃除をするのが日課の一つだ。その後に簡単に朝食の支度を手伝い

、朝食となる。同居する母親と一緒に摂るわけだが、今朝はこう言われた。

母・『猫トイレ掃除の時、爪砥ぎ見た?』

僕・『いや見なかった。』

母・『見なかったってか』

僕・『見なかった。』

母・『何よ…見てみて。』

僕・『…何が起きたのか、言えば良いだろ。』

母・『見ておいで。』

 

不快な氣分になりながら猫トイレの場所に行き爪砥ぎを見る。擦り減っていた。

僕・『減ってるって事な。買ってくるよ。』

まあ、これで済んだ。

 

母の言わんとするところは解る。『周囲の状況に気付け』といったものだろう。

僕が見ていなかったのは事実だが、上記の母の言い方は、今現在の僕には、不快である。ストレートに『爪砥ぎが減ってるから買ってきて』と言えば良さそうなものなのに回りくどい言い方を…と、思うのがまさに今の僕の症状である。

 

そうそう…20年もの間、上のような事は数多くあった。『なんで気付かないんだよ』を遠回しに伝えるような言い方・やりかた。

で、これが数回繰り返されると『もういい』になり、あるいは相手は怒りだし、嘲笑になるのがいつものパターン。

自分が発達障害と解り、社会の【普通の人々】と生き方を擦り合わせて関わらなければならないと解った今、僕がとっている方策は[その場の状況や相手の言い分から最適なサービスを読んで提供すること]としている。

すごく疲れるけど、社会との関わり合いのために仕方ない。今日は失敗した。次はうまくやろう。

とにかく不快な氣分が怒りとなるのはマズいので早めに朝食を済ませ席を発った。

この行為も相手を不快にさせるかも知れないが、相手は母親なので今日だけ・少しだけ勘弁してもらいたいと願った。

 

[その場の状況や相手の言い分から最適なサービスを読んで提供すること]。

正直、疲れる。

 

でも失敗すれば相手の怒りか嘲笑を買う。怖いので続けなければ生きていけない。