球技はコミュニケーションの王様であり全ての人間は嗜み楽しむのが常識である、という国。

>【…という国】。 

 

いや本当に、僕は30代まで日本をそういうみえない制度で覆われた国だと真剣に認識していた。

僕の幼少時にはモノクローム画像しか映せないテレビというものがギリギリ存在しており、当然、ネトゲだのソシャゲだのいうものなど無くファミコンすらまだ開発前。

子供の遊びといえば公園の遊具遊びか、徒手でテクニックを競うものだった。 

いわゆる第二期ベビーブーム世代のため近所に住む同世代前後の子供の数は多い。

なので必然的に、遊びといえば集団行動となる(後に発達障害その他の理由で集団に馴染めず孤独になる傾向の児童は異端児もしくは病児扱いされた)。

 

で、集団で遊ぶとなればまるで既存の決定事項の様に野球が始まる

 

別に必ず野球でなくとも良さそうなもんだが年長者が言い出してそういう事に決定する(している)。

 

病名が付く40年前だったが症状は生まれつきの僕は、見事なほど野球というスポーツができなかった。

喧嘩みたいに投げつけられた物体を棒で叩け?と言われて叩いたが叩いた途端に右側に走れとか、しかも逃げるみたいに全力で走れとか何の事だかさっぱり。

次の場所に走れとか今は止まれとか。次は広い間隔で立ってろとか物体が飛んできたら取れとかすぐ投げろとか。動きの理由を聞いても誰もが笑うばかり。そのうち負けだかアウトだか。こんなわけのわからない動作行動のどこが何故楽しいのか理解できなかった。理由を質問しても誰も答えないし。

ところがこの面白くもない芸事はなんと、市町村の各地域に分けられた子供の集団で対抗戦をやるという仕組みが存在しており子供には制服が支給され親は手弁当を作ってまで日曜日の日中目いっぱいを消費して大会を催さねばならない芸事でしかも、

 

『ヘタクソ』『鈍い』という心外で理解できない仇名を付けられて制服支給から免れた僕にさえ、応援という名の日曜日の消費を課すとんでもない芸事だった。

 

 

なんで望まず選ばれずの俺までが一人になれる貴重な日曜日を強制的に奪われなけりゃならねんだフザケんな大人ども。

と思った。今でも本氣で思っている。

まあ、田舎に子供の人権なんかなくて遊びは野球で野球は誰もが好きで楽しくて子供の成長過程の必須事項で親は日曜日は家族として参加するオラほのむらのみんなのレジャー。てな認識は確かにあったのである。

 

で、これがまた、学生になってからも僕に付いて回って嫌な思いばかりさせられる事になる。中学や高校ならまあ、男児の遊びに手頃だから仕方ない。

社会人になり就職して開放されるかとおもったら【社内レジャー】とかいう余計なお世話だクソくらえ的な行事となり僕に襲い掛かり、さらに数年後に看護師を志して看護学校に入学したら今度は体育の時間というシフトにバレーボールに化けて再来しやがった。

授業カリキュラムには【未来の看護職員として基礎的な体力を養うと同時に集団行動を学ぶ教科として…】とかある。

くっだらねえ屁理屈こねてんじゃねぇ

 

学生時代なら仕方ないかも知れないが、選択肢を狭められるだけでも苦しかったのに、他の選択肢を作らない考えの硬さが嫌いであり、他を選択できない状況が大嫌いである。僕は泣きながらいやいや従ったに過ぎないが、当県での自殺率の多さが、無関係とも思えない。