投資したつもりが損した話

だいぶ前のこと、心理カウンセラーの資格が取れるという学校に入学した事がある。

その学校の実績はネットでも雑誌でも調べた。結構な有名企業も顧客になっていたため信用した。僕の自宅からは遠方の都会の学校なので、月に二回の有給をとって通った。

 

都会の繁華街の真ん中に建つオシャレな学校で、心のカウンセリングを学ぶというジャンルのためか、受講者は女性が多かった。

入学は不定期で自由な時期に可能。入学者は教室の生徒の前で自己紹介する事になっている。いろんな人がいた。

 

生徒A

『わたしはぁ、数日前にぃ、心が壊れてしまう出来事がありぃ、ここで心の治し方を知るためにきましたぁ』

 

そうですか。可愛いことだ。

 

生徒B『獣医師なんですけど、スタッフとの意思疎通がうまくいかず、人間関係をうまくやりたくて来ました』

 

さすが医師は金持ちだ。誰かに悩み相談とかしてから来たのかどうか知らんが。

 

生徒C『ここではぁ、、、イルカと一緒に泳ぐセラピーがあるのできましたぁ』

 

シーズンも日取りも限られる短さなのに。その短さに入学金入れたのか。てか、イルカじゃなきゃならんのか?

 

生徒D『えーっとぉ、ここに入学した理由っつうとぉ、、、雑誌で見て、ちょっと興味湧いて友達に話したらぁ、あっと言う間に連絡されぇのぉ、見学にきたら手続きされぇのぉ、入学金払いぃのぉ…』

 

↑当時、こういう話し方が流行っていたのだが、学校で、初対面の他人の集団に対し、話す口調じゃないだろうにと思った。ましてこの男、どうみても40代のオッサンだ。

 

いろんな人がいろんな理由で来ていた。服装も突飛な人が多く、ミニスカでタックトップの女性もいればジャージに短パンの少年もいる。ここを心理学を学ぶ学校だと思ってかしこまっていた僕の考えは間違っていたような氣がしてきた。

 

 

世間の一般人は冗談で済ませる「らしい」事。

何がどう得なのか解らないが、メールではなくラインを使っている。

で、ラインにはタイムラインというのがあって、何がどう面白いのか解らないが、不特定多数の【ラインやってるひとたち】に向けて写真とコメントをセットで掲示するシステムがある。

それに今日、四葉のクローバーが沢山映っている写真が載っており、コメントにはこうあった。

『これを見たあなたは5秒以内にいいねを押すと明日いい一日になるでしょう

いいねを押さなかった人は明日災難な一日になるでしょう』

僕は押さない。

脅迫だろこれ。

こいつはデリカシーの無い愚か者か、他人の権利を侵害する無礼者だ。

災害が来て、避難することになったら、

台風が去った。運よく僕の住む地域は被害が大きくはなかったが、被害に遭われた方々には心よりお見舞いもうしあげます。

もし僕の自宅が損壊して、避難先で地域住民と共同生活を余儀なくされたら、どういう精神状態になるだろう。他人と同じ部屋での共同生活。一応経験はある。ある事情により二週間くらい入院治療していた。入院なので雨風凌げて室温は保たれ、三食にありつけるので不満を言えば『贅沢だ』と叱られる事になるんだろうか。でも耐え難いほど大変だった。

*自己紹介をしなければならない。いや、その義務はないのだが『今日からここに入院しますのでよろしくお願いします』とかは同部屋の先に居た人に当然言うべき。まあこれは理解も納得もできるのでまだまし。問題は、この自己紹介には当然続く展開の方。

 

*まず間違いなく『どうしました(入院理由となった受傷や疾患が何か?ということ)。』という会話が開始され事細かに【事情説明】しなくてはならない羽目になる。

 

*で、相手も自分の事情を説明する羽目になる。このプロセスを経なければ【不愛想な人間嫌い】のレッテルを貼られる。同部屋同士なので当然。

 

*口頭説明できる患者さんなら別段問題ないが高齢者で説明が億劫なのか手間を省きたいのか、自分の病衣をまくり上げて外科的手術の痕跡をみせて『おれぁこれだ』という説明手法をとる高齢者もいる。氣持ちは解るが、手術痕など見せられる相手の立場になって考え……る事ができないからやるのだろう。こちらとしては大変でしたねえとしか言いよう無かろうからそう言う羽目になる。

 

*入院してきた人間を知って親しくしたい…という氣持ちから出た言動なのは解るが、

『おめぇ、どこの人だ?』『どこさ住んでらってや?』『どの辺りや?』『駅の手前か向こうか?』『何番目の角や?』『右っ側か左か?』『家の壁の色は何色や?』と微に入り細に入り質問してくる高齢者がいる。相手が何者かを知るためにその居住区を知る事で状況を共通の話題にしたいとか知り合いの有無を確認したいとか思っているのは重々解るしそれが高齢者の高齢者たる知恵なのだろうが見ず知らずの初対面の人間がいきなり相手の居住地点をピンポイントで教えろと宣う行為が非常識で不氣味で今時なら犯罪行為になるという事は、高齢者ゆえに知らない。

 

*その他は夜に他人のいびきがうるさいとか。それぞれの生活サイクルがまちまちなので自分が静かにして欲しいときに鬱陶しいとか。所々で、やりたくもないよもやま話をしなければならないとか。

とかく『自分がしたいのにしてはいけない』『他人がしてる事は我慢しなければならない』のオンパレードで生きづらい。

 

避難も入院もしないに限る。すくなくともぼくは、鬱が増強するだろうし他の病氣も併発するだろう。

なぜ、動物に対して親しみが湧くのか

僕が幼児の頃、我が家では父親が購入した大柄なシェパードがいた。

僕より大柄で、当然の事だが付近の他者が接近すると獰猛に吠えた。

でも僕はこの犬が大好きで『ぬいぐるみみたいに毛並みが良くてかわいい』と思い、氣の向くまま撫でたり抱き着いたりしてしょっちゅう一緒に過ごした。犬も僕に自由に撫でられ、舌で舐めた。まあ臭かったが不快どころか嬉しかった。

それ以来というべきか、我が家では常に動物がおり家族の一員として暮らした。犬のほかインコなども。今は猫たちがいる。猫は生まれつき自立しているのか、親に教えられなくてもご飯は座って食べるしトイレで排泄する。それぞれで走り回ったり取っ組み合いしたり、オモチャでの遊びをねだったりものを引っ張り出して悪戯したり。あちこちで氣儘に寝転がったりするが、居心地の良さや寂しさの解消を求めてか、僕と一緒の布団で寝ようとしたりする。

動物は好きだ。べつに理由無く生理的なレベルで好きだとも思える。

動物園などで熊や虎をみれば怖いし懐くはずもなく逆に殺されるかも知れない恐怖も解るが、それは畏敬の念という形で『好き』と感じる。動物は安心できるし親しみが湧く。

僕にとって、だが人間ならこうは感じない。人間というものは、意味もなく危害を加えてきたり悪意を隠しもってこちらを伺ったり、隙あれば攻撃してきたり(フィジカル的にもメンタル的の意味も含む)、こちらの何か(同)を強奪しようとする事もある。そもそも、人間が付近に存在するときは、それらの人間に対して無礼失礼・怪しげ・脅威などが無いという意思表示をし、同時に自分も警戒しなければならず、事情によってはそれら人間たちに楽しい思いをさせなければならない、という見えない不文律が存在している。それが人間社会に思える。

冗談抜きで本当に面倒くさいのだ。今日も僕は、そんな人間社会でどう生きていくのが安全かを研究しなければならない羽目になり、おそらく死ぬまでこの命題に追い回される。

落着き

氣温18.9℃。雨降り。外は暗い。

僕の居住地は広々とした田舎。誰も来なければ何の喧噪もない。

世間一般人や所謂普通の人?が居れば暗いとか退屈だとかいうんだろうか。

でも僕はこの地域、こういう状況が好きだ。落ち着けるのだ。

この状況にある今日は調子が良い。雨の音の中で読書しよう。

世間の普通の人間(定型発達者)の常套句

・なんで?

・なんでそうやるの?こうやった方が良いじゃない

・それ変だよ

・それおかしいよ

・なんでできないの?

・普通にやればいいだけだろ

・おまえどこかおかしいんじゃない?

・こいつ変わってるから

・ちょっと変な人だけど良い人

・良い人だけど変わってるよね

・ズレてるよ

・まあ多少おかしいけど悪くない

 

 

うるさい。

 

僕の行動も言動も他者を傷つけず侮辱せず失礼に当たらないように配慮して行ったものであり犯罪を犯したわけでもない。否定される言われもないが否定するなら理由を説明して欲しいと言ってるのに説明すらせず逃げるのはなぜだ。そういうセリフを吐かれた相手の立場になって考えるような容易い事をせずそういうセリフを吐く人間たちのほうが、僕には理解できない。

 

人を傷つける人間のほうがおかしいのではないのか?